まさか自分が小説を書き始めるとは思わなかった。
本だけはムダに数を読んできたと思う。
だから、人並みに「自分でも書いてみたい」と思ったことがないわけではないけど、夢を見た瞬間、
「私程度の人間に小説なんか書けるわけがないじゃん」
と書く前に諦めていた。
だから、「自分は読むのが好きなだけで、書くセンスは全然ないっス」と思っていたのだけど、些細なことがきっかけで「小説らしいもの」を書くことになり、それ以来何とか「小説的なお話」を書き続けている。
でもやっぱり、これまでのほほんと人の作品を読んでいただけの身なので、小説の書き方なんてちっとも分からず無手勝流なまま書いていると、時々、「これでいいのかな?」
と不安に思うことなんてしょっちゅうある。
なので、よくある「小説の書き方」的指南本を読み漁ってみた時期もあったのだけど、どれを読んでもどうにもしっくりこない。
そういう執筆術は、ストーリーの構成やキャラクターの造形については教えてくれるんだが、肝心のことは書いていないという印象が強くて、私は読みながら、
「いや、そういうことじゃなくて……もっと、こう……根本を……」
とイライラしてきて、やがてそういう創作術系の本は読むのはやめた。
もちろん、そういうものが役に立つ人もいるはずなので、私に合わないからといってダメなものとは言わない。
でも、大事な何かが欠けている、という焦燥感みたいなものは消えなかった。
そんな時に、電子書籍でしかないと思っていた佐川恭一の『シン・サークルクラッシャー麻紀』が、書籍化されて書店に並んでいた。
佐川恭一の作品はKindleで、惑星と口笛ブックスというレーベル(なのかな?)の『スカーレット・ヤングスター』を読んで、めちゃくちゃ俗な話なのに何だか不思議に聖と無垢に溢れているというような印象が強く残っていて、それ以降、佐川恭一という作家を重要人物として記憶していた。
そんな彼が代表作、『サークルクラッシャー麻紀』と『受賞第一作』をマッシュアップした本作で、とうとう全国デビューした。
本屋でこの本が平積みされていたのを目にした瞬間(私が住んでるところはクソド田舎なので、通常こういう尖った本なんて置きませんのよ)、
「うぉぉぉぉぉぉっ!」
と声を上げそうになるのをこらえ、わっふわふと湯気を立てて興奮して購入、帰宅後その勢いのまま読んだ。
内容に関しては詳細に語らない。
短く大雑把にまとめると、大学の文芸サークルに超美人のサークルクラッシャーである麻紀が現れてからの、メンバーたちの変容と軌跡みたいなものである(ホント、大雑把だな)。
ストーリーの面白さは当然として、文章も含めてこの小説を読む醍醐味でもあるから、思う存分小説世界に浸ってみて欲しいのだ。
で、本の帯に、
【奇跡の童貞文学】
とある。私はそれを否定しないけど(そういうお話でもあるので)、それはちょっと違うなと思った。
私にとってこの小説は、
小説の神への、あまりに真摯で切実な信仰告白の物語
という印象を受けた。
それは、部長のこの独白を読んでも分かると思う。
大学卒業後、人並みに就職してからというもの、小説に対する思いが変わってしまったことを苦々しく述懐する場面は、小説を(富や名声を得る手段としてではなく)書いている人間にとって、まるで首にナイフを突きつけられているような感覚を憶えるのではないだろうか。
俺は自分が執筆の世界で使い物にならないことを知っているのに、まだ文学の純粋な読者になることができず、書き手としての視点、そしてもはや何の役にも立たない邪魔なだけの思考回路を捨て去れずにいるのだ。小説を書いた者だけが立てる境地があり、そこに立ってこそ読書の真髄に近づける、という意見もよく見かけたものだが、自分はそうは思わない。小説なんてものは、書かなくて済むなら書かないほうがいい。そうして純粋な読者として作者を信じ作品世界に浸り、その美点を思うさま味わうという仕方だけが、真の読書と言えるものなのだ。そしてその読書法は、一度書き手としての自分をーー才能の有無にかかわらず、自分なりの方法で精一杯にーー鍛え上げてしまった後では、二度と取り戻すことができない。書き手としての自分を想定してしまう頭では、決して純粋な読書はできない。よほど才能があるのでなければ、あるいは、よほど才能に自信があるのでなければ、書き手を志すことは害悪なのだ。
『シン・サークルクラッシャー麻紀』佐川恭一(破滅派)
書き手としての才能がないのに、純粋な読者に戻ることもできず、かといって批評家を名乗れるほど鋭い視点で物語を分析する能力もない。自分は本というもの、小説というものに対するもっとも悪い場所へと落ち込んでしまったのだ。
臆面もプライドもなく、ただ単に「売れたい! 作家先生って言われてチヤホヤされたい!」って野心で書いているだけなら、こんな苦悩やしんどさを背負うことはない。
それが望みなら、人が読みたいと思う(もしくは読みたいと思わせる)ものを書いていけばいいと思う。それも一つのやり方だから。
けど、そういう人間ばかりではないのも事実だ。
何の因果か、小説というものに神聖なものを信じたい人間には、小説を、文学を、そういう態度で扱うことができない。
この世に存在しない、ありもしない世界を作り上げる快感を覚えてしまった人間にとって、小説を書くことは、ある意味冒涜的な生き方なのかもしれない。
でも、だからこそ、小説の神から常に挑まれている気がする。
「これがお前の書きたいものなのか?」
「これに嘘偽りはないのか?」
と。
そして、また部長は自問する。
部長は人生について考える。仕事はそれなりに順調だ。おそらく年相応の、人並みの「成長」を遂げてきて、年収は高くないが、会社にとっていないよりはいた方がましな程度の存在にはなれただろう。しかし、自分は何かをあきらめたのだ。それは単に文学、といってしまっていいものなのかわからない。この国のいわゆる「文学」まわりの人間たちもまた、社会の風潮や流行、賞の傾向や売り上げに右往左往しーー少なくとも部長の観察する範囲ではーー書かれるものがみるみる貧しくなっているということを、本屋を少し歩いてみるだけで感じられた。見るべきものを見ているふり、不正義や欺瞞を暴き真実に肉薄しているふりをして、社会に受け入れられる地点よりは先へは決して踏み込まない。本当にえぐり出すべきものには触れず、みんなが見たくないと思うようなものは見せない、そうした手つきが全体を支配している気がした。そして、もちろん自分もまたそうやって生きている、労働はその迎合を否応なく要求する。しかし文学は、芸術は、徹底してその外にあるべきではないのか?
『シン・サークルクラッシャー麻紀』佐川恭一(破滅派)
このような苦悩は、ほとんどの人にはムダな悩みに見えるだろう。
何をくだらないことをうだうだ言ってるんだ、と。
こっちはそんなこと考えるより金稼ぐのに必死なんだよ、とムカつく人もいるかもしれない。
生きるかどうかに、そんなことが関係あるの?と思う人の方が多いだろう。
でも、小説によって自分の中の何かが変わった人間にとって、この問いは軽く済ませられる問題ではないのだ。
そして、そういうある種の信仰に対する問いを抱いた信徒である、部長や「紅一点」たちの前に麻紀が現れるのは必然だったとも言える。
麻紀は、小説の神が遣わした、サタンの姿に模した天使だと見ることができるのではないか。彼女の数々の誘惑や挑発(それは、麻紀自身も意識して行っている)に屈服しそうになりながら、それでも信仰心に忠実であろうとする。
結果、部長や紅一点、一次は打ち克つことが出来た。
そう、この小説は私にとって、佐川恭一による「荒野の誘惑」を描いた物語だ。
佐川恭一という作家こそ、サタン(名声や虚栄心、金銭欲など)の誘惑から自由な、真の小説家であり、この小説で彼は読者に向かって「これこそが小説だ」と堂々と挑発している。
と、こんな面倒くさいことを考えなくても楽しい小説であるけれど、ナメた態度で読み始めると返り討ちに合うこと必定である。
油断せぬよう、お気をつけいただきたい。

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