国を挙げての国葬も、過ぎてしまえば何ごともなかったような顔で日常が戻る。新聞やラジオ、テレビが口を揃えて主張するように、「最高指導者が死のうとも、我々が真の共産主義社会を実現するための歩みを止めることはない」のだ。
「同志ガリェーチンの遺志に対して出来ることは、ただ規律正しく、快活に労働と勉学に励むことである」(イワン・ルシコフ閣僚会議議長談)。
ということで、ガリェーチンの唯一の遺族であるオリガも勤務先であるモスコヴァ大学の職場に復帰し、「規律正しい快活な労働者」の生活を再び送り始めた。
そして四月に入った直後のこと。
ガリェーチンの死からひと月近く経ち、今やガリェーチンのことを口にする者はない。あの嘆きの熱狂もすっかり過去のものになり、誰も彼も自分の日常を生きることに夢中になっている。
そのことを寂しいとは思わない。高潔なるソヴォクの労働者が、自分がいないことくらいで時を止めることの方が、父にとって我慢ならないだろうから。
「共産主義革命は未だ完成していない。一秒でも歩みを止めれば、すぐに反革命分子がのさばってしまう!」
この言葉を倒れる直前まで口にしていた人なのだ。父にしてみれば、無意味な霊廟詣でをするよりも、職場に向かってくれている方がよほど満足するに違いない。
勿論、唯一の遺族であるオリガも、職場である大学で学究の徒として、ソヴォクの未来のために貢献する日々というわけだった。
朝から夕方まで研究や学生の指導に励み、退勤後は食料を買って家に帰り、夕食の後は、寝るまで好きなだけ本を読んだり、音楽を聴いたりして過ごす。たまには同僚たちとアルコールも提供しているカフェに行って飲むこともあるが、羽目を外すようなことはさすがになく、もっぱら日付が変わる前にはベッドの中に潜り込んでいる生活だった。
それは何も父が亡くなって喪に服しているからというわけでなく、父が倒れる前からそういう暮らしをしていただけで、本人としては特に自らに何かを課しているわけではない。
オリガが住んでいるアパートは、党の幹部たちや軍の高官たちの「赤い貴族」が暮らす『河岸ビル』だった。
大学に入る時、父親と暮らしていたシェルビスカのダーチャを出て、かつて両親と暮らしていたクレムリクのポテシュニスカ宮殿の部屋に住んだのが最初の一人暮らしで、今は二度目の一人暮らしになる。ここに移った時は、まさか天涯孤独の身になるとは思わなかったが、一人でいることには子どもの頃から慣れっこだったので、自分の心象風景にさほど変化はないというのが現実だった。とはいえ、さすがに周囲には私の暮らしぶりは随分禁欲的に映るようで、夜にいつ訪ねても私がいるものだから、ご近所さんの”同志”たちから、
「ねえオリガ、少しは日常からはみ出すようなことをしても良いんじゃない? いくら独り身だからって、修道女みたいな生活してたら息が詰まるわよ」
と心配されてしまう状況だった。
当人としては、そんなことを言われるたびに、
「それが”正しいプロレタリアートの暮らし”ってものじゃない?」
と笑ってしまうのだけど、家にばかり籠もっている人間を見ていると、本人より見ている方が不安を覚えてしまう気持ちも分からないでもないと思う。「あなたのお相手になりたがる男なんて、モスコヴァどころかソヴォク中にいくらでもいるでしょうに。毎日とっかえひっかえしたって、あなたのことを悪く言う人間なんていないわよ。それどころか、そのとんでもない美貌を有効活用しないなんて、宝の持ち腐にも程があるわ。要らないなら、私たちに分けて欲しいくらいよ」
こんな本気か冗談か分からない言葉を、昔から友人のマルタたちからよく言われていた。
どうやらオリガの男っ気のなさは随分目を惹くようで、一部では「オリガ・ガリェーチナは男が嫌いらしい」なんてことも噂されたこともある。
ナターリア・ソコリニコワのように、”ソヴォク陸軍の英雄”ゴルドフの軍服をびっしり飾っている勲章よろしく、自分がモノにした男の数が自分の価値であると信じている女ならそういうことにも勤しむだろうけれど、あいにくオリガにそういう趣味はなかった。
それどころか、自分と恋愛したいと願う男が、皆が言うほどいたとは到底思えない、とオリガは考えていた。
何しろ、彼女が今までの人生で思い出されるのは、声を掛けることすら畏れ多い、といった様子でオリガを遠巻きに眺めている男の子たちの姿ばかりだったのだから。
きっと彼らの目には、常にオリガの後ろに父の顔がちらついていたに違いない。いくらこちらで熱っぽい視線を送っても、避けられてばかりいた記憶しかない。
こんな調子なのだから、異性にとって自分は魅力的な女ではない、という諦めのような気持ちが早い時期から生まれるのも仕方ないではないか。
それに、愛情を気安く扱うことについて、彼女に根強い抵抗や嫌悪感があった。
好意を抱いていない相手に無用なエネルギーを注ぐくらいなら、自分が本当に興味がある、文学や歴史など知的好奇心を満たす方がよほど楽しいと思っている。
「君は、欲望に目が眩んで自分を安売りしないからね。そこが君の美徳なんだよ。そして僕は、そんな素晴らしい君に相応しい男でいたいと思ってるんだ」
そんな風に言ってくれた彼を思えば、水増しして薄まった愛情をばら撒くなんてこと、死んだってしたくない。
どんなことがあったって、意地でも私は私でいなきゃ。たとえ、たったひとりぼっちになったとしても。
そう決めていた。
「オリガ。いつものこれ、届いてたわよ」
名前を呼ばれたので頭を上げると、事務局のマリアが封筒を手に机の前に立っていた。
「随分マメな協力者よね。毎週毎週、一度も途切れることがないんだもの。あなたが休んでた時も届いてたし。よっぽど面白いネタをたくさん持ってる人なのねぇ」
感心したように言いながら封筒を渡してくるマリアに、私は、
「確かに、あの革命を生き延びてると、存在自体が資料価値って人も多いわね。物は壊されて消えてしまっても、記憶までは消されてないもの。さすがにあやふやな記憶に頼りっぱなしってことはないけど、昔の話って今ではあり得ないような、神話みたいな話が多いから、知れば知るほど面白いわね。おかげでまとめるのに苦労してるけど」
と答えた。
私の言葉を聞いて、マリアはよく分かると言った顔で頷く。
「あなたの研究が充実してるのは、その机を見れば分かるわ」
そう言って、机の上に出来ている資料の紙束の山の一つを、ノックするように叩くと、踊るような足取りで部屋を出て行った。
マリアから渡された封筒は、A5サイズよりやや大きめの変形のもので、表には端正なキリル文字で大学事務局の住所と、『オリガ・ガリェーチナ様』と書いてあり、裏にはY.N.Fとある。
数年前から毎週月曜日に、同じ大きさ、同じ厚みで毎週欠かさず私宛てに届く郵便物がある。差出人はY.N.F。私の専門である歴史学のテーマの協力者、ユーリ・ニコラエヴィチ・フェドセーエフという西部地方に住む老人だ。
フェドセーエフとは、革命前の地方において教会が行っていた教育についての聞き書きをしに行った時に出会った。革命前は貴族階級の一員として安穏と生きていたが、大戦の勃発により従軍した際、軍にいた農村出身者や労働者から実情を知ると共産主義に目覚め、それ以来、共産主義革命のために生涯を捧げた男だ。
という具合に周囲には説明している。
だが、この筆マメな差出人の正体が、かつてこの大学で権勢をふるいながら、今は秘密警察の監視の下で隠棲している著名な物理学者などとは、よもや誰も思わないだろう。
封筒に入っているのはいつものように、紙挟みが挟める限界まで挟まれた紙束だったが、今回は一つだけ、いつもとは違ってもう一つ小さい封筒が混じっていた。
オリガはその封筒を見つけると急いで掴み、誰にも気づかれないようにさっとメモをまとめているノートに挟んだ。
それから昼休みの時間になり、オリガはそのノートをバッグに押し込み、部屋を出た。中庭に行こうかとも思ったが、人の目があるのが気になるので諦め、構内を出て街中に出ることにする。しかし、大学の近くは学生や職員がたくさんいるはずなので、少し遠出してエフレム修道院近くの公園に向かうことにした。
途中でピロシキを売っているカフェがあったので、そこでピロシキ二つと、持っている魔法瓶に入る分の紅茶を注いでもらった。
公園には聖職者の姿が多かったが、彼らに交じって松葉杖の中年男や酒瓶を小脇に抱えた老人などが、昼に修道院で配られたものらしい粥を食べていた。
オリガはそんな聖と俗が入り交じった景色の中を、一つだけ空いていたベンチを見つけてに腰掛けた。
まずは腹ごしらえ、と思いたかったが、例の封筒の方が気になってしまう。行儀が悪いと思ったが、ピロシキを片手にバッグから封筒を取り出して、中の手紙を読みはじめた。
『偉大な父上から鋼の意志の強さを受け継いだ君のことだから、一度決めたことを覆すような臆病な真似をしないことを私はよく知っているつもりだ。
しかし、今回だけはその決断を今すぐ撤回して欲しいと思っている。
その計画は、君の生命を危険に晒すほどの価値がある行動とは思えない。そう考えているのは私だけじゃない。サーシャも君のことを心配していることを、その心に留めておいて欲しい。
”もう自分は一人なのだから、何も、誰の邪魔もない”。君はそう言うが、君を心から愛し、その身を案じている人間がいることを分かって欲しい。
それでも、それでもなお君があのことを実行するというなら、このリストは君の助けになるはずだ。
リストには君もよく知っている名前もあるだろうが、確認のためにも改めて記しておく。
可能であれば、これを使うことがないことを願っているのだが……』
狂おしい棘 第五話
連載小説【狂おしい棘】この記事は約7分で読めます。


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