一般的に、世界最古の職業といえば売春、というのが定説になっている。
皇太子時代の英国のチャールズ3世が自らの立場について、「世界で二番目に古い職業」と控えめに語っていたくらい、歴史の古い仕事としてある種の敬意を払われている。
確かに、人間の本能を扱う売春は、何よりも人間らしい営みと言って良い行為なんだと思う。時代の流れと共に消えた職業だって数ある中、売春だけは有史以来ずっと続いているのだから。
そんな「伝統的」な職業でありながら、非合法なものとして扱われているってんだから、人の世は面倒くさい。
だいたい、公序良俗とか聞いて分かったフリをしてるけど、そもそも公序良俗って何なんだって話であるんだが。
ゴリラでも食物に対する対価として性を差し出すことはあるというのを読んだ記憶があるので、売春は類人猿共通の行為みたいだ。そんな感じで他の動物にとっては当たり前なことでも、高等な生き物でございなんて思い上がりたいヒトがそんな野蛮なことはいけませんってことなんだろうか。
今回初めて人間に転生したとしか思えないくらい、世の中の道理が今でも分かってない人間には理屈自体が飲み込めない。単にバカなだけなんだけど。
しかし、人間の業みたいな売春一つとってもそこにはお国柄が色濃く出るようで、塩野七生さんがローマにいた若い頃、友人だった娼婦とのエピソードがいかにもイタリア的だと思って興味深かった。
その友人の娼婦マリアは、どんなに馴染みの客から頼まれても日曜日は決して仕事をせず、塩野さんが行くバチカンで行われる音楽会に付き合ってくれた。そして、その音楽会が終わった後は塩野さんがマリアに付き合う番。
まず聖ピエトロ広場で行われる教皇の祝福を受け、次に向かうのはホームレスに無料で食事を提供するボランティア。何でもマリアは食事を提供している施設に寄付をしていて、その関わりからその仕事の手伝いもしていた。そして、食事の準備が終われば、ホームレスもボランティアも、そして塩野さんも、皆一緒になって食事をする。そのように過ごしていたという。
ある日曜のこと、いつものように一緒に過ごしていた時、塩野さんはマリアに尋ねてみた。
「ここを運営している聖職者たちは、平日のあなたの仕事のことを知っているの?」と。
するとマリアの口から返ってきたのは、「ええ、勿論」とだけ。
まったくあっけらかんとした口調に、緊張して質問した塩野さんが拍子抜けするくらいだったという。(『神の代理人』メイキングより)
そういえば、映画『エーゲ海の天使』に登場したギリシャの小島の娼婦も、客のイタリア軍の兵士(後に夫となる)から「どうしてこの仕事を?」と聞かれて言ったのは、
「おばあさんがそうだった。お母さんもそうだった。だから私も」
という何ともシンプルな答だった。
人間の営みに性は不可欠で、それが悪徳なわけがないじゃない。そんな風に性に対する罪悪感と無縁であれば、報酬の対価として性を提供することにも罪悪感は無用だろう。まあ、誰もがそうなれるわけではないし、そうである必要もないけれど。
そんな大らかな地中海的娼婦像から所変わって、ドーバー海峡を挟んだ二つの国の娼婦はどういうものだったか。
テキストとして、イギリス側は『ヴィクトリア朝の性と結婚』(度会好一著、中公新書)を、フランス側は『パリ、娼婦の街 シャン=ゼリゼ』(鹿島茂、角川ソフィア文庫)を参考にして比較してみよう。
2冊とも取り上げている時代は、19世紀の、イギリスはビクトリア朝、フランスは七月王政~第二共和政~第二帝政~第三共和政という、ちょうどぴたりと重なる時期になる。
まず話を進める前に、両国では法的に娼婦はどういう存在として扱われていたかということを明確にしておきましょう。
『ヴィクトリア朝の性と結婚』によると、フランスは札(鑑札)なしで商売をする娼婦は警察の取締りの対象になる一方、イギリスでは売買春も客引きも法的に問題はなかったという違いがある。
いや、問題はないと言っても決して野放しだったわけでないんだが、フランスが娼婦を役所から認可を貰った娼館、売春宿に囲って(このメゾン・クローズについては鹿島茂さんの別著『パリ、娼婦の館 メゾン・クローズ』に詳しい)、公認の管理売春で公序良俗の風俗を守ろうとした(日本の赤線みたいなものか)のに対し、イギリスの場合、社会の平穏を乱したり公共に迷惑をかけることでもないと、警察としても手出しが出来なかったという。
しかしまあ、大西洋を挟んだ欧州とアメリカくらい遠いなら価値観がまったく違うのも分かるけれど、津軽海峡よりせいぜい十数キロ長い程度の距離でこんなにも違うかと驚いてしまう。
そこら辺は、カトリックとプロテスタントの違いでもあるんだろうかとも思うが、宗教に関してはさっぱり分からないのでそれ以上は黙っておく。門外漢が口出すと、ロクなことにならないからね。
で、英仏の娼婦で一番違うのは、ヒモの有無だと思う。『パリ、娼婦の街』でも一章丸々ヒモについて語ることができるほど、娼婦に欠かせない存在として挙げられている。逆に、イギリス側のヒモは存在感が薄い。
フランス人にとってアムール、つまり愛の有無は重要。少なくとも、自分には愛する男/女がいるかは、生きるために必要な価値観と信じているように見える。実際はどうだか知らないが。でも、映画『私の男』(桜庭一樹さんの小説とその映画版とは別物でござる)の主人公だって、「娼婦こそ我が天命」のように信じて客を愉しませていても、「私の男」だけは特別な存在だった。愛する存在(何も男に限らない。女の場合だってある)が娼婦である自分を正しいものにしてくれる。そんな信条を持っているのがフランスの娼婦という印象を受ける。
さて、ヒモと言っても男ならば誰もがなれるわけではない。やはりどの職業でも、素質や才能というのがモノを言う。それはヒモでも同じ、かもしれない。知らねえけど。
ともかく、これからヒモになりたい男性諸氏はこれを目指して頑張って欲しい。
一つ目は、「娼婦に対する蔑視を持たない」。
次に、「娼婦に”この人は自分がいなければ生きていけない人間だ”という「生きがい」を持たせることができる(博打好きなど金遣いが荒いことが推奨されます)」。
三つ目には、「梅毒をうつされても”これが愛の証し”と思える愛の深さと覚悟を持つことができる」。
そして最後は、「娼婦に”自分こそがこの人を一番愛している”と思わせることができる(「DV彼氏」になるとなお良いらしい)」。
最後のカッコの中は、「はぁあ? 最低じゃん!」と思うかも知れないが(私も思う)、鹿島さんによればこれこそがまさにヒモにとって必要なものらしい。
DVのあとの仲直りがあまりに甘美なので、それを味わいたいがために、わざと相手にDVをしむけるからだ。そして、DVの度合いが激しければ激しいほど、愛も深いと錯覚するようになるのである。
鹿島茂『パリ、娼婦の街 シャン=ゼリゼ』(角川ソフィア文庫)より
この手の話、よく聞きますけど本当なんでしょうかね?
幸い私自身は暴力男を知らないので、そこら辺の女子の心の機微は理解出来ないんですけど、アルコホリックとかDV男を夫に持つ女の人が、「呑まなければ/殴らなければ、良い人なんです!」って力説するのもこんな感じなんだろうか?
ああ、オンナ心は複雑よな。そして、結果こういうことになるらしい。
ヒモというのは、娼婦にとって、自分がセックス・ワーカーとして働き続けるための存在理由(レゾンデートル)となっているのである。それは、サラリーマンが辛く無意味な(と思える)デスク・ワークに耐えていくために、専業主婦たる妻と家族が必要なのとまったく同じなのである。
鹿島茂『パリ、娼婦の街 シャン=ゼリゼ』(角川ソフィア文庫)より
だから、もしヒモがやけに倫理的に潔癖で、娼婦に養われるのを潔しとせず、自分の力で働くなど言い出したら、娼婦は全力で、それを阻止しにかかる。これも、サラリーマンが、妻がパートに出るのを嫌うのと同じことだ。
ゆえに、良妻ならぬ「良ヒモ」とは、けっして働くなどとは言い出さず、家でブラブラしていることを抵抗感なく受け入れることができる男ということになる。
そんな「愛こそがすべて」なフランスとは対照的に、イギリスの娼婦は独立独歩が信条という面が見られる。基本的にヒモは不要。というか、邪魔。女ひとり自由に生きるためには金が必要で、その金を得るための手段として売春を選んだだけ、という娼婦も少なからずいたらしい(勿論、ジョン・クレランド『ファニー・ヒル』の主人公みたいに、頼った相手が悪かったせいで娼婦に堕ちるという人も多かっただろうけど)。
下は、そんな自由主義者の証言になります。
豪華な服装に身を包んだ彼女にリージェント・ストリートで出会った。これはまたどういうわけで、と私はたずねた。ええ、奉公にも飽きたし、人生経験を積みたいし、独り立ちしたい、で、男に誘惑されたわけでもないのに、自分から進んで娼婦になったという。娼婦のどこが悪いの、とても楽しいし、出世するかもしれない、多分実入りもいいだろうというのだ。一つの職業として、しかもやる気満々で手を染めたわけだ。本を読み、手習いやほかのたしなみも習って、ジェントルマンたちの相手にふさわしい女になるのだという。行儀作法は良くなっていてーーもうがさつとはいえない。ドレスは立派でものもいい。
度会好一『ヴィクトリア朝の性と結婚』(中公新書)より
あたいがどうしてこの道に入ったかって。話したげるわ、簡単だもん。あたいはうんと田舎のバーミンガムで女中をやってた。働いたり、こき使われたりして稼ぐのがーー稼ぐといったって、ひどい稼ぎだもんーーイヤんなっちまった。一年で五ポンド、それにあの食いもんと来た日にゃ、飢え死にしたほうがまし、ほんとだってば。ちょっとしてから、あたいはコヴェントリーに行った、土地の言い方じゃあ、ブラマジェム(バーミンガム)からずらかるか、っていうんだけど。そこに駐屯してる兵隊さん相手に商売をした。間もなくそれもイヤになった。兵隊さんはいいーー兵隊さんはねーー一緒に歩いたりなんかしてる分にはよ。でも、お金になんないのよ、お金もってないもんね。そこであたいは自分に言い聞かせた、ロンノン(ロンドン)に行こう、そして実行した。そこじゃすぐに相応のところに落ち着いたってわけ。変な生活よね、あたいのやってる生活って。じゃ、そろそろ行くわね、さいなら。
度会好一『ヴィクトリア朝の性と結婚』(中公新書)より
あー、バイバーイ……。
とまあ、こんな具合に「とにかく誰にも頼らず自分の身ひとつで稼いでんだ、他人に文句なんか言われる筋合いはないね!」と娼婦なりの流儀で生きている女もいたようだ。
『ヴィクトリア朝の性と結婚』の著者である度会氏は、このあたりのイギリス娼婦の背景について、
何をするのも個人の自由、ただしその自由は公共の迷惑になってはならぬというイギリス的自由の思想であろう。
と見ている。
だからこそ、「娼婦は心理的にも物理的にも暴力からの保護だとか人生のパートナーだとかいう幻想を与えてくれるヒモを必要としなかったのではないだろうか」(『ヴィクトリア朝の性と結婚』)と結論づけている。
でも、そんな娼婦の独立志向もヴィクトリア調後期になると変化する。
『刑法改正法』による社会純潔運動のグループが警察に圧力をかけたことで、娼婦に宿を提供していた下宿屋が摘発を受けるようになる。
その流れから、男と一緒でないと下宿なりの部屋を借りることが難しくなり、その流れで娼婦は生活全般をヒモに頼らざるを得なくなったというのである。この結果、女が自分の力で身を立てる手段を奪われたことになり、男の支配下に置かれることになってしまった。
こうしてヒモに依存することによって、娼婦が男に支配されるようになっただけでなく、売春自体が地下に潜り、一見社会が「浄化」されたように見えるようになった。そして、そのことを純潔運動の活動家は自画自賛する。
しかし、それは単に隠れて見えなくなっただけなのだが、そういう現実は見ない、見えない。というより、自分の都合の良い(あるいは悪い)現実しか認めないのが、その手の人間のオメデタさである。
それは娼婦がそれまで以上に足を洗うことが難しくなったという事実でもあるんだけど、彼らにとって見えないものは存在しないことになっているようだ。
という具合に、やっていることは万国共通のように見えても、そこには国の歴史や文化や宗教観などが濃厚に染みついている。そして、性ほどその個人の人間性が露わになる行動もないのだから、たかだか売春なんて侮るなかれ。
ところで、鹿島茂さんによると、日本の性風俗は世界的にもかなりユニークに発展したものらしいけど、そこいらについての本とかありますかしらね?


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