8時限目【いつかの思いで】
この思いは、いつか思い出になるんだろうか。
このひりつくような強烈な乾きは、癒やされるんだろうか。
終業チャイムが鳴り、生徒たちが勉強道具を片付けながらそそくさと帰り支度を始める中、凪南の声が教室に響く。
「いーいー? 今日やったところは試験には出にくいかもしれないけど、覚えておくと後々助かるから覚えておくといいわよー」
聞いてるんだか聞いてないんだか、生徒たちは「はーい」とか「あーい」などと思い思いに返事をする。
まったく、試験はまだ先のことだと思って油断してるんだから。
凪南は板書を消しながら、生徒たちの関心がなかなかに勉強に向かわないことに、少々寂しい思いもしていた。そりゃあ、まだまだ試験は先だけどさあ、もうちょっと身を入れて聞いてくれてもいいじゃないさ。
自分の授業には今以上に他のアプローチが必要かもしれないな、などと考えながら、この予備校に来てからの一年半を思い返す。
高校教師時代は、マニュアルに沿って教えていけばいいという気楽な部分があった反面、教える側にはどうしてもマンネリに陥ることが多かった。一方、予備校は結果が出せなければお役御免というシビアな面があるから、講師にも緊張感がある。 その緊張感が凪南にはなかなかに心地よかった。上司も同僚も人当たりのいい人ばかりで、職場環境にも恵まれている。
不本意な形での転職ではあったけれど、結局これは正解だなと嬉しかった。 さて、今夜は何を食べて、何をして過ごそうかなどと考えながら片付けていると、
「あっ、鈴木先生、お疲れさまです」
という声がした。振り返ると同僚の小林がいた。
「ああ、お疲れさまです」
「今日も鈴木先生の授業は良かったって、生徒たちが言ってましたよ」
「そうですか? でも、なんだかまだ試験は先だって感じで、集中してないように見えるんですよね。私のやり方がまずいのかなーって思ったりして」
「先生は生徒に求めるものも高いですからね。でも、これから本番が近づくにつれて目の色変えてきますよ」
「そうだといいんですけどね」
そんなやり取りをしていると、ふと小林の後ろの人影に気づく。
「小林先生、その後ろの方は……?」
小林は慌てた様子で、「ああ、そうそう、この人は今日からバイトに入った学生さん。さ、自己紹介して」と後ろを振り向いて促す。ああ、そういえ今朝、「新しくバイトが入る」と言っていたのを思い出す。
小林の後ろから出てきて、凪南の前に現れた。
うつむきがちで、伸びた前髪で表情が見えづらかったが、ふと上げた顔に凪南は「あっ」と小さな声を上げる。
伊織だった。
印象的な瞳と眉、きりりと引き締まった唇。間違えようがなかった。
しかし、彼は凪南を見ても動じることはなく、軽く会釈すると自己紹介した。
「北野伊織です。K大の二年です。よろしくお願いします」
「あ、私は現国担当の鈴木凪南と言います。こちらこそよろしくお願いします」
伊織と凪南の間に流れるぎこちない空気にも、小林は気にも止めず、伊織に仕事のことを説明する。
「で、北野君には鈴木先生の助手、みたいなことをしてもらいます。ま、助手といっても難しく考える必要はなくて、まあ、鈴木先生の仕事の補佐、採点だとか資料整理だとかそういうところだね、それをやってくれればいいんだ。じゃ、そういうことで、あとは鈴木先生頼みますね」
そして、小林は伊織を置いて教室を出ていった。
伊織と二人、教室に残されて凪南はどうしていいのか分からない。再会を喜んでいいものかどうか。嬉しくないわけではない。でも、気まずいままの別れに双方のわだかまりは急には解れないはずだと思うと、気軽に声はかけづらい。
しかし、重い沈黙を破るように伊織が口を開いた。
「先生……久しぶりです」
「うん……ひさしぶりだね。それにしてもK大って言ったっけ。すごいね」
「いや、僕にしては出来すぎですけどね」
「そんなことないでしょ。北野君、やればできる生徒だったからね」
「先生のおかげですよ。あの頃熱心に教えてくれたから……」
あの頃の話を切り出そうとして、伊織は思わず口をつぐむ。
その顔に、彼の心にはあの頃のことは重荷なのかもしれないな、と凪南は思う。少し悲しかったが、仕方ないことだと切り替える。彼には罪はないのだから。
「とりあえず職員室に戻って、仕事の段取りでも説明しようか」
「はい」
そうやって二人は教室を出て、廊下を歩く。こうして並んで歩くのはいつ以来だろう。伊織は最後に会った時よりもまた、背が伸びた気がする。
「もしかして北野君、背伸びた?」
「ああ、はい。少しですけど伸びました」
伊織の些細な変化に気づく自分の思いに、凪南は気づかないふりをする。もうその思いに振り返らない。
そう決めたはずだから。
それが、伊織との再会の初日だった。


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