7時限目【空っぽの世界を漂って】
世界は私がいなくても勝手に回る。
こうして朝から酒をあおって飲んだくれていても、学校という小さな世界は何も変わらない。
凪南は、何本目かのビールの缶を開けながらぼんやりと思う。
学校に行かなくなって三週間になる。最初は体調不良ということにしていた言い訳も、次第に言い訳すら面倒くさくなり、今や無断で休んでいる不登校教師だった。
最初の頃は心配していた同僚教師もいたが、今や彼女に連絡してくるのは中川ぐらいだった。彼は仕事中もいつも関係なく電話をしてきては、凪南を気遣うような言葉をかける。
「先生、どうしたんですか? 体の具合が悪いなら病院行きましょうよ。俺、付き合ってあげますから」
言葉こそ丁寧だが、その声音には凪南のテリトリーに侵入して来ようとする魂胆が見え見えだった。
「え、いえ、休んでれば大丈夫なんで……」
「じゃあだったら、看病に行きますよ」
「いやっ……いえ、来なくていいです。一人で大丈夫ですから……」
あの時の悪夢が蘇る。再び中川に土足で踏み込まれる前に、なんとかしなくては。それにしても、自分の心がこんなに弱いとは思わなかった。失恋ごときでこれほどみっともなく崩れてしまうなんて、甘っちょろすぎる。
伊織とはあの日以来、顔を合わせてもあからさまに避けられるようになった。あてつけのように梓といることも多くなった。表面的には、もとのなんでもない教師と生徒の関係に戻っただけ。体から始まった関係が終わっただけ。
そう思おうと思った。
しかし、伊織のことを意識するまいと思えば思うほど、虚しさが鋭く胸を刺す。
その頃からだった。ますます酒の量が増えて、朝起き上がるのが苦痛になるという事態に陥った。
嫌だ、嫌だ。こんなの嫌だ。
床に寝転がって、子供のように泣きじゃくる。
伊織への恋しさと嫉妬と愛おしさに溺れながらも、中川への恐怖心で身動きが取れない自分の無力さに苛立つ。
もう教師としての責任感などかなぐり捨てて、何もかも放り出してしまいたかった。この感情も、体も、リセットしてしまえたらどんなにいいだろう。
そうやって感情の振り子に身も心も振り回されながら、それから幾週間か経った頃、その通知が来た。
諭旨免職の通知。
もう終わりだった。読みながら力が抜けていく。
しかし一方で、その機械的な文面に凪南は救われる思いもあった。
これで彼らと顔を合わせなくてもいいんだ。愛からも憎悪からも解放される。そう思ったら、なんだかしばらくぶりに笑い出したくなった。
その日はもう、酒は飲まなかった。その代わり、酒の瓶や缶で散らかった部屋を黙々と片付ける。これまでの淀んだ感情も捨て去るように。
雨続きだった空も晴れ上がり、凪南の気分もすっきりしていた。夜、ベッドに横になるのも久しぶりだった。そして翌日、凪南はネットで不動産会社と運送会社を、血眼になって探していた。もう、ここにはいられないと思った。
新しい場所へ行こう。
凪南には、彼のいない世界が必要だった。


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