母上がわたくしを産み落とした時、産婆の手に抱かれた赤子はぐにゃりと力なくもたれるだけで、泣き声を上げることもできない状態だったらしい。
そんなことだから、その場にいた女たちは皆、この子はすぐに息絶えてしまうだろうと考えたのも致し方のないことであった。
しかし、初めてのお産を終えたばかりの母上に、そのことを伝えるのは気が引けた。
互いに顔を見合わせ、母上の「子を、わたしの子を……」と赤子を請う声にどう応じていいのか困惑していると、一人の年若い女房が産婆から青い顔をしている赤子を取り上げ、いきなり口吸いをし始めた。
一同が呆気に取られながらその様子を眺めていたら、やがて赤子の口から、ほほっ、とか弱い息が漏れた。
思いがけないことに息を飲んだのもつかの間、次の瞬間にその赤子はぎゃんぎゃんと泣き喚き始めた。
その泣き声たるや、さっきまでの沈黙が嘘のようにやかましく、まるで虎の子のように一所懸命に喚く様の愛らしさに、場は一気に和やかな空気に包まれた。
これが、わたくしがこの世に出でた瞬間の出来事である。
そして、その後もわたくしは虚弱のまま十四となった。
男も十四であれば立派な成年として世に立つことになるはずであるが、わたくしはその任を負う義務からとうの昔に外されていた。
長子でありながら、虚弱であることに加えて女子のように怖がりで臆病な息子を、父上は嫌い疎ましがり、わたくしが五つの時、橘家を継がせるのは弟の兼定と決めてしまった。
それ以降わたくしは、邸宅の裏にある庵で書や音楽に耽る孤独な生活を送ることになった。
それまで、乳母やら女房やらで賑わっていたわたくしの周りは、一人、また一人といなくなり、ただ一人を置いて人の気配はすっかり消えてしまった。
彼女の名は梳子と言った。彼女がいなければわたくしの命はなかっただろう。あの時、口吸いをしてくれたのが梳子だった。
梳子は、十二で橘の家に出仕してきた下級貴族の娘で、あの時はまだこの家に来て数ヶ月という頃だった。
あの一件以来、橘ではわたくしの命を救ってくれた恩人として重用されるようになったが、わたくしが跡継ぎから外されると同時に、彼女の立場もまた凋落することになった。
そんな経緯もあり、実家から他の勤め口を見つけるから橘から暇を貰って帰ってこいと言われたのにもかかわらず、それ以降も梳子はわたくしに昼も夜もなく、まめまめしく仕えてくれていた。
「だって、わたしはずっと雅延さまにお仕えすると決めているのですから」
梳子はそう言って、今日もわたくしが読んだ書を書棚に仕舞う。
お仕えするという言葉に嘘はなかった。
彼女は常にわたくしのそばにいてくれた。起きてから床につくまで、ずっと、ずうっと、わたくしが寂しくないように共に過ごしてくれる。
いや、時には床についてからもそばにいることがあった。
わたくしは夜が怖かった。
灯りが消え、真っ暗になると、体の奥の方から得体の知れない怖ろしい感覚が湧き上がってくることが、ままあった。
その感覚は、言葉にすることすら怖ろしく、ただ蒲団の中でガタガタと震えて朝が来るのを待つだけだった。
わたくしが一人そんな風に怯えていることを、隣の部屋にいる梳子はどういうわけか気づいてくれ、
「雅延さま、今夜も”あれ”が来たのですか?」
と戸を開けて来てくれる。
そして、わたくしの蒲団の中にすっと静かに入ってきて、わたくしが安心して眠りにつくまで体をさすってくれるのだ。
「怖くない、怖くない。”それ”は必ず鎮まりますよ」
彼女の手の感触に包まれ、真綿のような柔らかで優しい声を聴いていると、ものの数分ですうっと寝入ってしまう。そして、朝が来るまで夢魔の出る幕もないほど安眠できるのだった。
梳子はわたくしとずっと一緒にいてくれると、信じて疑わなかった。だって、わたくしは梳子が好きだった。彼女がいることで、わたくしの存在が意味あるものになると考えていたのだ。
だが、それは突然だった。
梳子に縁談が持ち上がったのだ。
相手は少将の息子で、どこかから梳子の働きぶりを聞き知ったらしく、それほど献身的に働く娘なら嫁に迎えたい、となったらしい。
話を持ち込まれた当初の梳子は、渋っていた。わたくしを置いて嫁に行くなど、裏切りでしかないと実母に訴えた。
しかし、梳子の母君は「だからこそ、嫁に行くべきだ」と説いた。
お前が雅延さまに献身的であればあるほど、雅延さまはお前なしでは生きていけなくなる。それは、双方にとって不幸でしかない。ここで袂を別って、お前はお前の、雅延さまはまさの人生を歩む時である、と。
わたくしは梳子の母君の言葉を隣の部屋で聞いていて、胸に棘が刺さるような思いをすると同時に、母君の話ももっともだと思った。
いつまでも梳子をわたくしのもとに留め置いていては、彼女の一生を台無しにしてしまう。それは、わたくしの本望ではない。
わたくしは梳子に幸せになって欲しかった。
好きであるからこそ、梳子には幸せになって欲しかった。
それから、母君が帰った後、いそいそと夕餉の支度をしている梳子を呼び、わたくしはこう言った。
「梳子、わたくしのことはもういいから。自由にしなさい」
この言葉を聞いた梳子は、信じられないといったように目を丸くし、わたくしを凝視した。
「それは……どういう意味でございますか……?」
「意味も何も、そのままだよ。わたくしももう十八だ。自分のことは一人で出来る年だ。もうお前がいなくても大丈夫なんだから、安心して……」
「嫌です!」
梳子はそう言うと、わたくしの胸に飛び込んで泣きじゃくった。
「嫌です! わたしは雅延さまのそばから離れません! あの時、わたしの唇で雅延さまをお助けしたあの瞬間から、わたしは雅延さまと共に生きていくと決めたのです! わたしと雅延さまを引き裂く人間は、たとえ親兄弟といえど敵でございます!」
わあわあと泣く梳子は、わたくしより十二も上なのに幼く見えた。
そんな梳子の頭をあやすように撫でながら、わたくしは彼女にこう言った。
「梳子がいなければ、わたくしはこの世にいなかった。お前はわたくしの恩人で、父上にも母上にも見限られたわたくしを、誰よりも慈しみ、育ててくれた。有り難いと思っている。しかし、もうわたくしに囚われてはいけない。梳子には梳子の天命がある。それを生きていかねばならないんだ。大丈夫。わたくしたちの絆は、未来永劫消えてなくなることはないよ。だからもう泣くのはおし。さあ、笑って別れよう」
そこまで言うとわたくしは、両の手で梳子の顔をそっと包んでこちらに向けた。わたくしをまっすぐ見る梳子の瞳には、哀しみの中に諦念のような、覚悟のようなものが潜んでいるのを見つけ、わたくしの胸は痛んだ。
その純真な思いがどれだけわたくしを癒やしてきたか。彼女のひたむきな心にどれだけ救われてきたか。そして、梳子が与えてくれる悦楽が、それほどわたくしを孤独から救ってくれたか。
出来ることなら梳子を攫って、この狭苦しい庵を飛びだして行きたいと、夢見たことも一度や二度ではない。
しかし、その夢も終わりにしよう。
しばらく沈黙が流れた後、おもむろに梳子が口を開けた。
「分かりました。雅延さまがわたしのためを思ってそう仰ってくださるのなら、その思いに報いなければ失礼というものです。梳子は、嫁に参ります」
そう力強く言った梳子に安堵したのもつかの間、彼女はあることを口にした。
「雅延さま。お別れの前に、ひとつお願いがごさいます。梳子の最後のわがままを聞いていただきたいのです」
これまで共にいて、愚痴一つこぼさずに来た梳子の願いならば、是非とも叶えてあげたいと思ったわたくしは気安く応じた。
「わたしの腹に、雅延さまの子種を宿していただきたいのです」
この十八年間、常に愛する女がそばにいたというのに、この瞬間を夢にも思わなかったというのは自分でも驚いてしまう。
しかし、現実に梳子が衣を脱ぎ、肌を露わにしたのを目にした瞬間、わたくしの中で眠っていた欲望は、ようやく思いを遂げることができる喜びで暴れ出すことになった。
一糸まとわぬ姿の梳子を胸に抱き、両の手は彼女の体を這い回った。そのしっとりとしたきめ細やかな肌、柔らかな肉の感触に、わたくしは理性を捨ててむしゃぶりついた。
梳子の項に、背中に、腋に、腰に、頭を埋めるたびに、彼女の体臭が鼻腔を通じて、わたくしの体を貫き、性感を刺激した。
もはやわたくしは人間としてではなく、獣のような情動で梳子を欲していた。
彼女の乳房に食らいつき、荒々しく蹂躙していく。乳首に歯を立てるたびに、梳子の口から艶めかしい吐息が漏れる。
「あっ、はぁっ……んん……ま、さの、ぶ……さまぁ……」
しかし、わたくしはこれだけでは満足できなかった。彼女から理性の鎧を剥ぎ取り、野生的な梳子が見たかった。
わたくしはおもむろに、梳子の足の間へ手を伸ばした。わたくしの野生が、嗅覚が、ここから沸き立つ匂いに反応していた。
閉じようとする足を無理矢理広げ、女人の秘密の園を覗き込む。
そこはひたひたと蜜に溢れ、芳しい薫りに満ちており、わたくしを誘って口を広げていた。
蜜の誘惑に抗えず、一目散にしゃぶりつく。ぴちゃぴちゃと、猫が乳を飲むように舐め取る一方で、ピンピンと魔羅の如く立ち上がっている不思議な茎を指で弾いていると、梳子の腰も飛び跳ねた。加えて、もう片方の手で秘孔に指を入れ、中へと繋がっているうねうね脈動する道を行き来させ、梳子の理性を泥になるまで蕩かせた。
「あっ、あっん、はっぁ……やんっ……まさのぶさま、だめ……そんなに、しては……すけこ……、すけ、こ、の……頭が、おかしく……なって、しまう……」 わずかに残る自我で、官能へ上りつめることに抵抗する梳子に、わたくしは最後の手段へ打って出た。
「梳子……わたくしはもう、我慢しない。お前はわたくしと一緒に色欲へ堕ちるんだ」
この言葉に、梳子は苦しそうに息を切らしながら、嬉しそうに頬を緩めた。「ああ……そうですわね。梳子は雅延さまと、色地獄へと堕ちて行くのが夢でした。雅延さまに貫かれて、天にも上る気持ちで堕ちて行くのですね」
うっとりと幸せそうな顔で語る梳子を見て、わたくしも嬉しかった。
わたくしの男根はすっかり、刀身のように鞘を求めてそそけ立っていた。
梳子の体に覆い被さる。
「いいか……梳子」
梳子の目をまっすぐに見る。すると梳子もまた、わたくしの目を射貫くように見詰め返してこう言った。
「ええ。一緒に堕ちて行きましょう」
梳子の中へ男根を突き立てると、わたくしたちは一心同体となった。
わたくしたちは朝日が上るまでの間、何度も何度も、我が身を壊すと思われるほど互いをぶつけ合ったのだった。
そして、その日のうちに梳子はわたくしのもとから離れ、予定通りに少将の息子と無事夫婦になった。
その後、わたくしと梳子は二度と会うことはなかった。文を交わすこともなかった。
ただ、風の便りで一つだけ知っていることがある。
それは、梳子に似た女の子どもが出来たということだった。


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