悪い男

短編小説
Rahul SinghによるPixabayからの画像
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 顔を見た瞬間、「まずい……」と思ったのもつかの間、向こうが気づいたのが早かったらしい。私が後ろを向くよりも先に、
「ああ、山村さん……」
 と言うあいつの声の方が早かった。
 見つかったか……。
 でも、常識的な社会人として気まずい顔は一切見せず、満面の「営業スマイル」を浮かべて彼にこう返した。
「お久しぶりです、久生ひさおさま」
 
 その再会から数時間後、私はこいつ、久生瑞輝みずきと二人きり、エレベーターの中にいた。 いたって健全な関係である。
 買収先の会社のCEOと、買収された会社の財務担当の責任者というだけのこと。買収協議はつつがなく終わり、今をときめくベンチャー企業の社長はお帰りになる。私はそんな彼を見送るという任務についた。
 それ以上でもそれ以下でもない。 
 そこにまったく私情を挟む余地はない。 
 ということで、さっさと運転手付きの高級車(日本に数台しかないやつ)でお帰りいただきましょう。
 35階からの直通のエレベーターの中、私たちは一切の言葉を交わさなかった。
 そりゃそうだ。
 あの最悪の別れから8年にもなるんだから。
 お互いにもう顔どころか、名前だって聞きたくないだろう。少なくとも私はそうだ。
 ……そのはずだった。
 でも、瑞輝のこの言葉が、心の底にしまっていた本音を目覚めさせた。
「ねえ、今でも夜暗くなると恐くなるって言うと笑うかな?」
 ああ、そうだった。瑞輝は夜が嫌いだった。暗いのが恐いと言って、私にしがみついていた。
 そして、暗闇の中で私の中にもぐり込む。
 何度も何度も、私の中に入って夜を忘れようとしていた。
 あの唇から漏れる荒々しくも艶めいた吐息も、合わせた肌のしっとりと潤いに満ちた肌も、忘れたかったけど忘れられるわけがなかった。
 だって、私はずっとあの夜の記憶に囚われていたのだから。
 でも、油断は禁物。
 これはこいつのいつもの手段だって、私は知ってる。
 知ってるはずなのに……。
「悠子……」 
 私を後ろから抱きしめて、首筋にそっと口づけるその感触に、私の体は疼く。
「悪い男……」
 そう呟くと、瑞輝はくすりと笑った。 
「うん、確かにね。でも……オレから離れられると思う?」
 そうね……そうかもしれない。

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