かつてNHKで『その時歴史が動いた』という番組があったのをご存じかしら?
この番組の司会者だった松平定知氏といえば、NHKのエースであり、看板アナウンサーとして長年視聴者にお馴染みの人だったけど、同時に、
《酔っ払ってタクシーの運転手をぶん殴った人》
としても記憶している人が多いんじゃないかしら(はい、年代がバレますね)。
当時はまだポリティカル・コレクトネスとかコンプライアンスなんて言葉は知られてなかったけど、それでもこの騒動は大問題となって(何しろ警察沙汰になったほどだから)松平氏は謝罪会見を開いたし、謹慎処分も下って一時期テレビから姿を消した。でも、その後が今とは違った。松平氏は謹慎期間が過ぎたら元の通りにテレビで出るようになり、ニュース番組に起用されたり、先の番組にも出たりしていた。
昔は甘いとか今が厳しすぎるとかいった議論は、正直私にはどうでもいいことなので、そういうのは道徳に熱心な方々が好きなだけ考えればよろしいと思う。
でも、復帰後も松平氏はニュース番組の生放送中にもの凄い形相でカメラに向かってボールペンを投げつけたとか、松平という家にプライドがあるので(何でも名門なのだそうな)名前を呼ぶ際、一般的な「まつだいら」イントネーションで読むとめちゃくちゃキレるなんて評判がある人なのに、それでも重用されていたの見ると、人格とか人望を上回るほどの実力があると、そういう評判は問題視されないのかなと思ったりする。
と長々と前口上を書いて、ようやく本題に行きます。
ところで、LGBTQの方の性的指向であろうと性癖の方の性的嗜好であろうと、その社会の中で自分が責任を負うっていうのであれば、好きに生きればいいと思っている。「こうでなくてはいけない!」「こうあってはいけない!」なんていうルールはせいぜい、「物を盗むな」とか「人を殺すな」、「欺すな」みたいな、どの宗教どの社会でも禁忌としている基本的な規則だけで十分で、あとは「世間の人に迷惑かけなければ、個人の自由にすればいいんじゃね?」っていう感じ。
ま、それも私自身が決まった宗教を持っているわけでなく、篤い信仰心に支えられて生きているわけでもないから無責任に言えるんだけどね。
でも、だからといって宗教を信じる人を悪く言う気もない。
その人にとって生きる支えや迷った際の道標になっているものを、他人がとやかく言う資格はないのだから。ただ、自分と違う生き方がある、と思うだけだ。
某元首相の件やそれが発端となってクローズアップされることになった某キリスト教系新興宗教の問題(でも、彼らの関係なんて特に調べようと思わなくても出て来るぐらい有名だったけどね)なんかで、信仰を持つ人たちを馬鹿にしたり揶揄する人も多いけど、それらのことと個人の信仰は別物だし、それに無宗教が特別偉いわけでも正しいわけでもないじゃんって思う。 それどころか宗教を馬鹿にする人間が抱く信念だって、軽蔑している宗教の教祖が主張するものと大差ない(世の中所詮金、ってな)と思っているから、どっちがどうとか争っても似たり寄ったり、目くそ鼻くそな印象しかないのよね。
しかし、いくらどんなことをしても個人の自由と言っても、その嗜好が社会を揺るがす大事件に発展してしまったという歴史もあるわけで、個人と社会の関係はなかなか難しい。それが国の根幹をなしている民族問題となれば、なおさらである。
時は1985年5月1日、場所は旧ユーゴスラビアのセルビア共和国内のコソボ自治州のとある町。
この日町の病院にジョルジェ・マルティノヴィッチという農家の男性がやって来た。どういうわけか、肛門にガラス瓶が刺さった状態で。
それだけでも異様なのに、本人が畑で作業しているとアルバニア語を話す男二人に襲われたと証言したことで、その頃から悪化していたセルビア人とコソボのアルバニア人の関係を、一触即発の状態にしてしまった。
実はマルティノヴィッチ氏、
「いや、実は瓶で……」
とこっそりガラスを使って自慰をしていたことを供述し、最初の証言を一度否定していたんだけど、後にこの供述を撤回している。
でその結果、セルビアではアルバニア人への悪感情がますます高まり、民族主義に勢いをつけてしまった。
って、なんじゃいそりゃ?
と思っちゃうけど、そんな騒動もマルティノヴィッチ氏が亡くなったことで、真相はうやむやになったままである。
旧ユーゴスラビア紛争と言えば20世紀最悪の民族紛争であり、今なおその影は旧ユーゴの構成国だった国で尾を引いている。
米原万里の『嘘つきアーニャの真っ赤な真実』(角川文庫)や『魔女の1ダース』(新潮文庫)で、彼女がチェコのソ連学校時代の親友だったユーゴ出身の女性のことが書かれていて、その彼女の境遇にショックを受け、他人ながら読んでいてとても辛かった。
だから、そんな悲劇の歴史にこんな少々情けない事件が関係してたと知った時は、笑っていいものやら泣いていいものやら戸惑った。
もともと良い印象を持っていなかった相手(民族でも性別でも宗教でも国でも何でも)に対して、悪意や敵意を持っていいし、それを大っぴらに表明してもいいんだという空気がいったん作られると、公権力は簡単にお墨付きを与えてしまう。
このことは、昔に限らず、ロシアのウクライナ侵攻や、ハマスのイスラエル急襲とそれに対するイスラエルの反攻でも、同じようなことが起こってしまっている。
「陽の下に新しきものはなし」
とは言うけれど、もう少し知恵をつけてもいいのにまったく人はいつまで経っても同じことを繰り返す。それも、幸福に対してではなく、悲劇に向かって、何度も何度も飽きもせず。
所詮、ヒトは本能が壊れた動物だ、と言えばそれまでだろう。
でも、その流れに逆らうことだって出来るはずと思いたい。賢者や聖者になることは無理でも、知恵をつけた凡人になるくらいには。
ということで、ムフフなお楽しみは安全な環境を整えて、個人の責任の範囲で頼みたい。
恥ずかしい性癖がバレても、恥ずかしいからと言って他人に責任をなすりつけないよう、くれぐれもお願いしまっす。


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